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毛利元就との戦い

天文21年(1552年)、義隆の養子であった大内義長(大友晴英といい、当時の豊後大友氏当主大友宗麟の異母弟にあたる。生母は大内義興の娘)を大内氏新当主として擁立することで大内氏の実権を掌握した。このとき隆房は、晴英を君主として迎えることを内外に示すため、陶家が代々大内氏当主より一字拝領するという慣わしから、晴英から一字をもらって、晴賢と名を改めている。

その後、晴賢は大内氏内部の統制という目的もあって徹底した軍備強化を行なった。北九州の宗像地方を影響下に置くため、宗像氏貞を宗像に送り込み、山田事件を指示したともされている。しかし、この晴賢の政策に反発する傘下の領主らも少なくなかった。天文23年(1554年)、それが義隆の姉を正室とする石見の吉見正頼と安芸の毛利元就の反攻という形で現われたのである。

晴賢は直ちに吉見正頼の討伐に赴くが、主力軍が石見に集結している隙を突かれて毛利元就によって安芸における大内方の城の大半が陥落してしまった。このため、晴賢は窮余の一策として宮川房長を大将とした軍勢を安芸に送り込むが、折敷畑の戦いで大敗してしまい、安芸は毛利家の支配下となった。
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反骨の英傑の最期 [編集]
弘治元年9月21日(1555年10月6日)、晴賢は自ら1万の大軍を率いて、安芸国厳島に侵攻し、毛利方の宮尾ノ城を攻略しようとしたが、さらに毛利軍の奇襲攻撃によって本陣を襲撃されて敗北し、毛利元就に味方する村上水軍によって大内水軍が敗れて、退路も断たれてしまい、逃走途中で自害した。享年35。((厳島の戦い))

死後 [編集]
晴賢の死後、居城の富田若山城は先に父・杉重矩を晴賢に殺害された杉重輔によって攻め落とされ、晴賢の嫡男・陶長房は自害に追い込まれる。以後、大内氏は急速に衰退していき、弘治3年(1557年)には毛利軍によって滅ぼされた。

人物・逸話 [編集]
直情型で独断専行の多い人物で、義隆との対立も文治派と武断派との反目というより、自身の性格が原因したとも言われている。
晴賢配下には江良房栄という智勇兼備の武将がいたが、この人物を恐れた毛利元就は房栄が内通しているという噂を流し、晴賢は他の家臣が「元就の謀略だ」と言うのも聞かずに、房栄を誅殺してしまった。また、厳島の戦いにおいても腹心の弘中隆包が「元就の狙いが大内軍30000の大軍を狭い厳島に誘き寄せて殲滅しようとするものだ」と進言したにも関わらず、これを聞かずに出陣・大敗して自害するなど才覚に比して器量に不足していた面をのぞかせる。
父の陶興房に似て武勇に秀でた人物で、「西国無双の侍大将」と呼ばれた。
疑心深く、かつ冷酷な人物で、厚狭弾正という人物が無罪を訴えていたとき、笑みを浮かべながら火あぶりにした。その直後の合戦で晴賢は落馬したが、このとき晴賢の家臣は弾正の亡霊が晴賢を突き落とすのを目撃したとされている。一方で、家臣を思いやるような逸話もある。出雲遠征から敗走する際に、自分の兵糧を護衛に与え、自らは干鰯を食べて飢えを凌いだという。
辞世は「何を惜しみ 何を恨みん 元よりも この有様に 定まれる身に」。

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2009年03月16日 10:56に投稿されたエントリーのページです。

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